昭和四十六年十二月十九日 朝の御理解
X御理解 第五十四節 「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」
 心配はないと、心配のない生活、いわば不安のない生活、素晴らしい事です。
 信心によってここんところが、体得出来るという事は、何にも例えようのない程、有難い事です。心配のない、不安のない、取越し苦労もない、五十二節に信心する者は驚いてはならぬ、これから後どのような大きな事が出来て来ても、少しも驚く事はならぬぞ。どのような場合、どのような事が起き、どのように直面致しましても、ビクともせんで済む泰然自若としておれる。
 本当に素晴らしい事です。そこで次の五十三節に、信心すれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより、知らぬおかげが多いぞと、後で考えてあれもおかげであった、これもおかげであったという事がわかるようになる。
 そうなれば本当の信者じゃ。ですからどのような場合であっても、泰然自若、ビクともせんで済む信心。又は心配のない、不安のない生活、その裏を思うと心配のない不安のない生活というのは、有難い、勿体ないという生活、いわゆる五十二節にあるあれもおかげ、これもおかげと、おかげとして頂けれる信心。
 ここは私は、五十四節を頂いて、五十二節、五十三節と改めて頂いて、本当に真の信心、又真の信者という事。又、真の信心を頂かして頂かねばならんという事に本気で、真の信心、真の信者を目指して貰わねばならないという事がわります。
 だんだん信心させて頂いとりますと、いわゆる取越し苦労をだんだんせんで済むようになる。まあ、突発的に事が起こっても、どうして自分にこのような度胸が出来ておっただろうかというように感じる。もうすでに、私は、真の信心が身に付いていきよる証拠。真の信者になっていきよる証拠。いわゆるお徳を受けていきよるしるしでありますから、そこんところをいよいよ、極めて行こうとする姿勢。あらゆる場合、あらゆる事の、いわゆるチャンスをいよいよ御神徳を受け行く事の稽古をさせて頂かねばなりません。
 昨夜、お月次祭を頂いて、本当に合楽のまあ、見るというか、度々の月次祭を頂くと、合楽の御比礼を目の当たりに感じますね。
 昨日も昼には、起工式を終えさして貰い、そして月次祭でございますからね。それが起工式には起工式、昨夜古屋さんがお届けしておられましたけど、設計者としての御用を聞いておられますから、起工式などは随分あっちこっちで体験された事でありましょうけれども、昨日帰りに奥さんにいわれた、今度合楽での起工式、あんな起工式ははじめてだった。盛大であったとか、沢山の人が集まったとかそんな事ではない そこにね、形式化と申しますか、形だけの事ならもっと美しい、立派な、起工式がありましょうけれどもです、そこに本当に合楽の御比礼をそこに感じずにおられない起工式だったからなのですよ。私は随分、あっちこっちの起工式に出たけれども、こんな起工式にははじめてじゃったと主人が喜こんで帰りましたと、夕べお届けがあっとります。
 そこに本当に生きたものを感ずるわけです。起工式には起工式らしい、起工式。それはもう驚くばかりですね。これはもう私、それに携わらせて頂いて、本当に驚くばかりです。まあ、何と神様の様々のところに、一分一厘間違いのない事よと思わねばおられんのです。そして、月次祭度々にです、本当に合楽の御比礼の生き生きとしたものを感じずにおられません。そういう月次祭を久しぶりに頂かれた方が、終わった後からです、その方の上に大変に難儀な事なんですけど、その御理解の中に、ちょっとその方の事が出てますね。今、大変な難儀な問題に取り組んでおられますが、「先生あなたは信者のおかげを、あなた一人で吸い取ってしまっとんなさるとじゃないですか」という意味の事をいわれるのです。
 私はしかし、いわれてみて、はっとしました。本当にね、信者のおかげ本当に私一人で吸い取っとるとじゃなかろうかと思いましたよ。いわれてみて、という程しにですと思われる程しに、確かにおかげを受けておりますですね。
 昨夜休ませて頂きます前に、ここへ出てまいりました。その事が何とはなしに心にひっかかる。私はその事を神様に、神様に私は本当に信者のおかげを、私一人が吸い取ってしまいよるのじゃないでしょうか。信者はいうならば、一生懸命苦しんでいる。そして私だけがのほほんとしてその上に、あぐらをかいて、おかげだけを私が吸い取っておるのじゃないでしょうかというような、気持ちがございましたからね。そしたら神様から頂きます事がね、『あのテレビで浅草海苔ですかね、宣伝をやってる。上から読んでも、山本山、下から読んでも山本山、海苔は何とかの、山本の海苔とか何とか宣伝をやっているでしょう。山本山とい焼き海苔ですがね、あれは宣伝のあれを頂くのです。
 そして今朝の御理解を頂いてです、徳のない間は心配する。神徳を得れば心配はないとおおせられるが私共がその五十四節を今日は,五十二節と五十三節を引用させて頂きながら、今日頂いとるわけなんですけれども、本当に信心すればね、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多いとおおせられる。いやその、目に見えないところの方が大きいんだと、その目に見えない大きいおかげをです、すこしづつ本当におかげと感じられる信心。皆さん、幸をいう字を書いてひっくり返して見てごらんなさい。上からよんでも幸、下から読んでも幸、と読めるでしょう。幸福の幸という字を書いてごらんなさい そしてひっくり返してごらんなさい。それこそ上から読んでも山本山、下から読んでも山本山、上から読んでも幸なら、下から読んでも幸と読めるのが幸、幸福なのです。いわゆるあれもおかげ、これもおかげとわからせて貰う。
 信心の稽古というのはね、その事を聞きながら、秋永先生が言っとられるのですよ 例えば信心させて頂いて、合楽で有難いと思う事はね、それはどういう事にも直面します、どういうところにも出合いますけどね、その前後、又日々の中にです、神様の働きの間違いない事という事をです、実感するからその事も又、おかげとわかるんですよと。しかし、わかって頂くところに合楽の信心のいわば、素晴らしいところがあると思うですね。
 ですから本当に合楽の信心を一通り体得せねばその事がわからんのです。上から読んでも幸、下から読んでも幸、そして自分自身がです、様々な問題に直面しながらもだから、私は思うです、合楽で信心さして頂いとって、それをもし、感じられないような事であるならば、自分は今、大間違いに間違っておる時であり、狂っておる時であろうと先ず、しらなければいけんです。
 まあ、いうならば、私の祈りの圏内にあってです、その一分一厘間違いのない事なあという事を、というおかげはね、よいにつれ悪しきにつれで表れておるはずなのです。そこでその事を通して、より信心が一段と進まして貰う。より信心が有難とうならして頂く。成程、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多い事をです、今まで気がつかなかった事を気付かなかった面にです、おかげという御礼を申し上げれる事が生まれてくる。それが秋永先生のいうとられるように、とにかく、どのような問題が起きても事が起きても、そこにです、神様の一分一厘間違いのないおかげがわかるとい事はどういう事かというと、あれもおかげ、これもおかげとわかる事であり、同時にです、それがわかるようになれば、本当の信者といわれる。
 いよいよ本当の信者になっていきよる。だから今、自分の信心がどういう程度のところにあるか、自分が本当の信者を目指していきよるのか、いきよらんのか、そういう場合に本当の信者とおっしゃる。ああ,自分はおかげを頂いて本当のところを通らせて頂きよるなという事がわかるのですよ。ですから、それを辿らせて頂きさえすればです、おかげが受けられるぞと、見通しもつけば先も明るいです。それこそ浅草海苔ではないけどですね。
 その浅草海苔というのは色が黒いものですよね。いわゆる、色は黒うてもという歌がありますように、色は黒うても浅草海苔は、白いおまんまの肌をまくというような歌があります。それは浅草海苔のように真っ黒のいわば、苦労の真中かと思うようなところを通るのです、誰でも、その浅草海苔のような真黒の、苦労の真中を通っておる時、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山というおかげを頂かねばいかんのです。いわゆる、山本山、山という事は修行という事、修行の根本です。本当に修行・・・・昨夜から私が言い続けておりますように、渋がぬけていく時にはきつい、本当にぶりぶりしたおかげを頂く為には、やはり鯖に、鰹に、鰤という事なのである いわゆる鯖というかね、私共改まらせて頂くところを改まる時にはやはりきつい。 けれどもそれに鰹である。それに打ち克つ修行させて頂いて、はじめて鰤のおかげが頂けるのだ。いわゆるそこのところをです、あれもおかげこれもおかげと、わからせて頂けれる。それにはね、秋永先生の言葉を借りるなら、その前後にです、その事働きの中にです、神様の一分一厘間違いのない働きを、本当に実感できる、説明が出来るのです。言葉に出して、ですからこの事も神様の御神意、御神愛に違いない。
 目には見えぬけれども、これが神様のおかげであるとわかるから、その事に対してでも御礼が言えれる。それがわかるようになる。それがわかるようになれば、本当の信者になる。本当の信者を目指さなければ、徳は受けられない。徳を受ければ、どういう事になるか。徳のない間は心配である。神徳をうければ心配はないと。だんだん心配がない。渋がだんだんぬけていくに従って、だんだん甘くなるようにです、渋がぬけていくに従って、不安もなくなければ心配もない。只、あるのは有難いだけであり、勿体ないだけである。その有難い、勿体ないがいよいよ御神徳を受けていく事になりましょう。それがいうならば、大安心というような、大みかげにもなってくるわげであります。
 そういうものはもう、何というですか、特別の人だけしか受けられんのだと、人間が心配がなくなるはずなどないといったような、一掃しなければいけません。
 そんな事ちゃないです。信心させて頂けば誰でもなれる。心配のない世界に入る事が出来る。山本山の、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山と、そこんところを頂かせたい、わからせたいばっかりが、まあその言葉を借りるならです、先生だけがおかげを受けてござる。私どんな、苦しいばっかりと、その苦しいばっかりの時をです、有難いとわかる私は信心を、させて頂かねばならん。
 徳のない間は心配をする。神徳を受ければ心配はない。その前提として、五十三節五十二節を、もういっぺんわからせて頂いて、だんだん自分がその心配のない世界に入って行けておる自分を有難いと思い、それを楽しみに信心させて頂いた。本当にあれもおかげであった、これもおかげであったともう、過去現在すべてが、生きてくる過去にあんな事があったから、こんな事というような、恨みがましい事やら、過去の事に対する、そういうものが過去の一切が生き生きとしていきてくる。
 そこで現在取り組んでおるところの問題であろうが,苦労であろうが、過去のすべてがおかげであったと実感出来るように、現在のこれとても、おかげであるとわかる それはその後先、その内容の中に一分一厘間違いのない働きを感じるから、それをそれとわかる。いわゆる本当の信者じゃといわれる。本当の信者にだんだん近づかせて貰いよる。本当の信者になる。そこからです、お徳を受けられる。そこにはいよいよ安心のおかげ、いわゆる不安のない生活、心配のない生活取り越し苦労せんで済む 成程これから先、どのような事が起きても、驚く事はならん、驚かんで済む信心が身に付いてくるわけなのです。
 成程、それはね、容易い事とは思われません。けれどもそれが少しつづわかっていく、身についていくから、信心が有難いのです。ああ、金光様の信心は難しかち、特に合楽の信心は難しかと皆が言いますけども、難しいからこそ楽しいのです。
 容易い事だったら一つも楽しい事はありはしません。これは楽器なら楽器でもそうでしょうが、例えばハ-モニカ位ならすぐ鳴らせます。けどそれが少しこみいった楽器になりますと、仲々教えてもらっても、教えてもらっても本当の音色が出来ません けれども難しい楽器であればある程、やはり深みのある楽しさと喜びとがあるようにです、信心も同じ事、簡単にはわからん。簡単にはそういう境地は開けないけれどもそういう信心を目指して頂くところにです、私は合楽でいつもいう信心の姿勢というものがおかれなければいけないと思うのです。
 どうぞ一つ皆さん、心配のない、取り越し苦労をせんで済む、生活を思うただけでも有難い、そういう世界に住みたい。今日は昨日頂かせて貰うた、昨夜から頂かせて頂いた、又昨日私に一寸私には刺激でした、信者のおかげを先生あなた一人で吸い上げてしまいよんなさるとじゃないですかと、ほんにそうかもれん。とするとこれは、私も考えなければいけないなと。まあ、考えさせて頂いたけれども、そこには御神意御神慮の中には、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山。今は浅草海苔のように真黒い苦労しておろうけれども、どっちから読んでも、上から読んでも下から読んでも、あれもおかげ、これもおかげ幸を感じれるおかげ、そういう境地を頂かせたいばっかりの、御神意であるという事がわかるですね。
                     どうぞ。